LOGIN「今日はお時間を作っていただいて、ありがとうございます」
待ち合わせたカフェで席に着くと、実花は深く頭を下げた。
京は柔らかく笑う。
「気にしないで。『会いたい』なんて可愛い子にお願いされて断る理由ないじゃない」
「でも、急だったのに……」
「大丈夫よ、無理なんてしていないから」
そう言って紅茶を口に運ぶ。
「それにしても、あの光也がこんな常識的で可愛い子と婚約するなんて」
思わず頬が熱くなる。
「京さんは……」
東国家とは懇意にしていますよね。
篠原真理のことを何か聞いていますか。
そう言いかけた言葉が止まる。
「光也さんの、叔母さんなんですよね」
口にした瞬間、自分でも恥ずかしくなった。
(何を聞いてるの……)
それはすでに知っていること。
東国のパーティーで
「お父様なら、誰を東国の当主に選びますか?」実花の問いに、実篤は迷わなかった。「東国万葉だな」「万葉さん?」京が目を瞬かせる。東国万葉。東国夫人が産んだ三姉妹の長女だ。光也にとっては父親違いの姉にあたる。「女性、ですか?」真理が尋ねる。「東国家の基準で問題になるのは、東国万葉が女性であるという一点だけだ」実篤は不満そうに言った。「旧家の跡取りとして考えれば、実花に引けを取らない優れた人材だ」「引けを取らない、ですか」光也が実花を見る。「それは、随分と優秀なんですね」「君の姉だろう」「そうなのですが、いまいち覚えていなくて」「なぜだ」「異母きょうだいが多すぎます。ときどき増えるし……なぜ減らないのか」「減ったら問題だろう」実花は思わず父の袖を引いた。話が逸れている。実篤は咳払いをする。「ともかく、東国万葉が優秀なのは間違いない」一族の中での立場。人脈。実務能力。周囲からの信頼。どれを考えても、旧家を継ぐ者として申し分ないと実篤は言う。「そもそも夫人との結婚は政略結婚だ。夫人の実家としても、自分たちの血を引く者が継ぐなら異論はないだろう」実篤は一度言葉を切る。「東国の一族は、現当主の女問題で散々苦労させられている」実篤は呆れたように息を吐く。「愛人問題。夫人との不和。外に作った子ども。次期当主を巡る混乱。家の評判も随分と落ちた」真理が俯く。それに気づいた実篤は、静かに付け加えた。「真理君を責めているわけではない。君は被害者だ」真理は小さく頷いた。「東国君が後継者として最有力なのは事実だ」実篤は光也を見る。
「状況を整理したい」実篤のその言葉に、部屋の空気が引き締まった。光也が注文したルームサービスは、まだ届いていない。京と真理はソファに座り、実花は父の隣へ腰を下ろした。光也だけが少し離れた椅子へ座り、相変わらず落ち着いた様子で足を組んでいる。実篤はまず真理を見た。「女性と偽っていたところを見ると、真理君は東国の当主になる気はない。間違いはないか?」「はい」真理は迷わず頷いた。「僕は東国の当主にはなりたくありません」実篤は続いて光也へ視線を移す。「東国君は?」「俺は藤宮に婿入りするので」「それについては別途話し合いだな」光也がわずかに眉を寄せる。「まだ話し合う必要がありますか?」「……その話はあとだ」光也は渋々口を閉じた。実篤は真理へ向き直る。「では、君は今後どうしたい?」真理は膝の上で拳を握った。「僕は篠原家を継ぎたいです」その声には迷いがなかった。「ただし、それは男として。本来の自分に戻って、もう隠れるような生き方はしたくありません」名前を偽り、女生徒のふりをして。本来の自分を隠して生きることに疲れていた。しかし、自分の存在を明かせば、東国家だけでなく、関係する家々まで混乱させることは分かっている。だから、まだ名乗れない。実篤は静かに頷いた。「それなら、東国君がさっさと当主になれば問題は解決だな」光也は表情を変えずに答える。「その場合は、実花を嫁として東国家へ連れていきますよ?」「何だって?」実篤の眉間に皺が寄った。「当然でしょう。実花は俺の婚約者です」光也は淡々と返す。「俺が東国の当主になれば、実花は東国の当主夫人になる。藤宮家には渡しません」「実花を東国へやるつもりはない」「では、俺と実花の結婚はどうするのです?」「……知らん」「知らんではないでしょう」「……この話も後で、だ」実篤は咳払いをした。京が呆れたように息を吐く。「光也の話は置いておきましょう」「俺の将来の話ですが?」「ややこしくなるから黙ってなさい」実篤は京に感謝するような目を向けたあと、再び話を戻す。「東国君。君から見て、これという人物はいないのか?」「これの基準が難しいのですよ」「……そもそも、だ。君は親戚をきちんと覚えているのか?」光也は少し考えた。「そういえば、ろくに知りませんね」「なぜ
「東国光也! 貴様っ――何だ?」勢いよく部屋へ踏み込もうとした実篤の前で、光也は人差し指を唇の前に立てた。静かに。その仕草に、実篤は眉を寄せる。何だ、と不思議そうな顔をしながらも、ひとまず声を落とした。「誰かにつけてこられませんでしたか?」光也が周囲を確認しながら尋ねる。「……警察の世話になるようなことをやらかしたのか?」「心当たりはありませんね」「君が気づいていないだけかもしれないぞ」実篤は深いため息をついた。「それより、実花はどこだ?」「ここにいますっ」実花は光也の背後から声を上げた。実篤からは、光也の身体に隠れて実花の姿がほとんど見えない。光也が背に庇うようにして、実花を前へ出さないようにしていた。「……何をしている?」「実花を叩かせるわけにはいかないので」「なぜ私が実花を叩かねばならん」「昔のドラマにあるでしょう。無断外泊した娘に『この不良娘が!』と平手打ちするような場面が」「実花は外泊をしたわけではない」「まあ、そうですね」「万が一そうだとしても、俺ならお前を殴る」「確かに」光也はあっさり納得し、実花を前へ出した。実篤は娘の姿を頭の天辺から足先まで確認する。一度では足りなかったのか、視線が再び足元から頭まで戻り、もう一度下へ降りた。「見て分かるものですか?」茶々を入れるような光也の言葉を、実篤はひと睨みで黙らせる。髪も服も乱れていない。ただ、泣いた痕がある。「貴様、実花に何をした」「泣かせたのは、あいつです」光也は部屋の奥を示す。そこでようやく、実篤は部屋の奥にあと二人いることに気づいた。光也と実花が二人きりではなかったと分かり、実篤の表情からわ
光也にも、真理にも、東国の後継者になる気はない。けれど、東国の後継者が決まらなければ、真理は男として生きることができない。事情を聞き終えた実花は、改めてその難しさを感じていた。「光也から見て、これって人はいないの?」京が尋ねる。「“これ”の基準が分からない」光也は迷うことなく答えた。「ああ、そうかもね」京は呆れたように頷いた。「プロジェクトを任せられるか、部門のトップに相応しいかは分かる。だが、東国家となると分からない」光也は肩を竦める。「俺に求められたのは性別と顔だ。俺じゃないとなれば、それなりに条件があるだろうな」「なんか、すごい台詞ね。ホストの条件みたい」そのやり取りを聞いていた真理が、実花を見た。「実花なら分かるんじゃない?」突然話を振られた実花は驚く。「私?」「十八年間、藤宮の一人娘をやってきたんでしょう?」実花自身はずっと、自分が婿に迎えた人が後継者になると思っていた。しかし、父は実花を後継者に、婿となる者はあくまでも補佐だと言った。当然だというような口ぶりだった。「家の歴史とか、いろいろ言っていたでしょ?」「そうだけど……」幼い頃から受けてきた教育も、実は後継者に必要なものだった。そう考えれば、実花はこの中で最も後継者という立場に近い。けれど。「言われたままにやってきた感じだから、後継者の基準なんて分からないわ」実花は正直に答えた。父から学べと言われたことを学び、覚えろと言われたことを覚えた。自分が後継者に向いているから選ばれたのか。一人娘だから選ばれたのか。それすら、きちんと考えたことはなかった。「それならば、お義父上に聞くか」光也が当然のように言う。「あんたね」京がすぐに口を挟んだ。
【真理視点】「光也さんに近づくために、実花と仲良くなろうと思った」真理は認めた。実花の目が揺れる。その表情を見ていると胸が痛んだが、ここで誤魔化すわけにはいかなかった。「でも、それは最初だけだよ」光也に対して、初めに抱いていたのは興味だった。同情もあったかもしれない。申し訳なさも、少しは感じていた。光也は、親たちが選んだ道の結果を押しつけられた人間だ。父親が真理の母親へ向け続けた執着。自分の過ちを正すことなく、東国家から逃げることを選んだ母親。行き場を失った怒りを、夫の愛人とその子どもへぶつけた東国夫人。そのすべての後始末をするように、光也は東国の後継者へ指名された。東国の次期当主。聞こえだけは立派だ。しかし実際は、親たちが犯した過ちの尻拭いをさせられるような立場だった。「不思議だったんだ」「何が?」実花が涙を拭いながら尋ねる。「光也さんの……態度?」東国の次期当主という肩書きを積極的に使わない。かといって、激しく拒絶するわけでもない。恨んでいる様子もなければ、それを誇りに思っている様子もない。「光也さんにとって、東国の後継者っていう立場は、道端に落ちている石ころみたいに見えた」「石ころ?」実花が目を瞬かせる。「興味があるうちは、蹴るにしろ投げるにしろ、使い道があるなら持っていようって感じ」真理がそう言うと、実花は少しだけ笑った。涙で濡れた目元が柔らかく緩む。「分かるかも」興味がなくなれば、それまで。わざわざ捨てることさえもしない。その場に置きっぱなしにして、やがて存在そのものを忘れそうなもの。光也にとって東国の後継者とは、その程度のものに見えた。「でも、光也さんは東国の次期当主として淡々と実績を上げていた」
「実花、ごめん……」真理の声に、実花は首を横に振った。違う。真理が悪いわけではない。そう伝えたいのに、涙が邪魔をして言葉にならない。何度も首を振ることしかできなかった。けれど、それを見た真理の顔はますます曇っていく。「実花……」真理は困ったように唇を噛んだ。「僕が男だってことが、嫌だった?」実花は目を見開く。違うと言おうとした。しかし、息を吸うと喉の奥からしゃくり上げる音しか出てこない。「女の格好をしていたことも……気持ち悪いって思った?」実花は強く首を横に振った。それでも真理は、自分を責めるように視線を落とす。「実花と話すときは、気をつけていたつもりだったんだ」恋愛のこと。女性の身体に関わること。真理なりに、踏み込みすぎないよう注意していた。「でも、あくまで気をつけていたつもりでしかない」真理は俯く。「実花が僕を女だと思っていたからこそ、話してくれたこともあったかもしれない」実花はまた首を振る。真理と交わした会話で、嫌だったものなど、一つもない。男と分かった今でさえ。どれも大切だった。初めて友人と交わした、何気ない言葉。一緒に笑った時間。全部、実花にとっては宝物だった。「実花、僕が何か変なことをしたのなら――」「変なこと?」光也の低い声が割って入った。真理の肩がぴくりと揺れる。光也は先ほどまでよりも険しい表情で、真理を見ていた。「お前、学校で実花に何をした?」「何もしてないよ」「今、自分で変なことをしたかもしれないと言っただろう」「そういう意味じゃない」「では、どういう意味だ」光也が一歩、真理へ近づく。「お前が実花
扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤。藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。「……そ
「お嬢様、今日は髪をまとめて、首元を見せてみたらいかがでしょう」その一言は、何気ない提案のようでいて、実花にとっては奇妙な重みを持って響いた。前世の記憶が一瞬でよみがえる。一ノ瀬恒一は、実花が髪を上げることを好まなかった。首筋が露わになることを「下品だ」と言い、社交の場で他の女性が髪をまとめているのを見ては、どこか見下すような言い方をしていた。その言葉を、実花は何度も正解として受け取ってきた。だから彼の前で一度たりとも髪を上げたことはなかった。それが「好かれるための正しさ」だと信じていたからだ。だが今、その記憶は違う形で胸に残っている。「……いいわね」返事はすぐに出なかった。
使用人が用意したドレスを、実花は静かに見下ろしていた。白に近い淡紫色。光の当たり方によってはほとんど白にも見えるその色は、藤宮家の「清楚な娘」であることを象徴するために選ばれたものだった。上品で、柔らかく、誰から見ても好印象を与える色。前世の実花はこの色を疑うこともなく、むしろ一ノ瀬恒一の好みに合うだろうと信じて、少し誇らしげに選んでいた記憶すらある。彼に選ばれるための自分を作ることに、何の疑問も抱いていなかった。だが今、その淡い紫はまったく違う意味を持って見えていた。それは「清楚」の象徴ではなく、「従順」の象徴だった。良い娘であること、良い妻になること、それらの言葉に守られているよう
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい